大学進学を機に始めた、ジュエリー、指輪をはじめとするペンダント、ブローチ、イヤリングなどを製作する仕事。彫金、宝飾品加工の言葉が当てはまるこの仕事は昔、錺(かざり)職と呼ばれていました。
小さい頃から、ものを作ることが好きでした。
平面、絵を描くことは苦手でしたが、彫刻や粘土など、立体を形作ることが特に好きで、細かい細工や金属、石という素材。剣道や弓道など、道の追求に在る理念や志を、自分の中で重ねることができて、誰かに喜んで貰えること、誰かに感動を与えることもできるこの仕事との出会いは、生きる意味や喜びを見つけた瞬間でもありました。
上手くなりたい。その一心で進学した大学は、想いと環境の速度が噛み合わなくなり1年半で中退しました。
21歳になる年には、技能五輪という競技に、沢山の方に助けて頂き、挑戦をさせて頂きました。国際大会へ続く、国内大会優勝の1枠を、競技終了後に並んだ競技課題を見て確信をしていましたが、表彰台で立った場所は1段下でした。
国際大会、海外での経験が出来るという確信が目の前で崩れ、想いを捨てきれず、翌年イタリアへ行くことを決めました。
半年分の授業料を納めれば、1年間の滞在許可書を出してくれる語学学校に籍を置き、現地に着いたその日から、街中を歩き回って自分の目で観て見つけた一つの工房へ、頼み込みを何度も繰り返し、半年後に実現しました。
店頭のディスプレイに使われていた割れたサンゴ礁を接着することから始まり、各種SNSアカウントの登録や受け入れて頂いた工房のオーナーが使うコンタクトレンズを買いに行くなどのおつかいを経て、帰国が迫った頃には製作のほとんどを任せて頂けました。
工房に遊びに来る方々から、Giapponese、日本人と呼ばれていたのが、作ったものを見て、名前に変わる瞬間はとても嬉しかったです。
仕事で得られる喜びとは裏腹に、この場所で生まれ育った職人の方々の仕事に、言葉も完璧でなければ、人生経験も浅い自分が関わっていることが怖く、大切ななにかを壊しているように思え、迷いなく1年で帰国しました。
帰国後は、この仕事の意匠、心と技を育てて頂いた場所で研鑽を始めました。所属年数が増すにつれて、漠然としていた将来像が明確になっていくのと同時に、名のある工房に居ること、誰もが知る企業の仕事をして生きていけることが、この先、しがみつくことでしか生きていけないという不安に変わり、心身のバランスを崩して、地元へ帰ってきました。
久しぶりに帰った地元の印象は、人間的で豊かな場所です。
ここで会った、目がくもってる。なんて言葉をかけてくれる方々から伝えて頂いた「後悔のない自分の人生を生きる」ということがRaccontoを立ち上げた一番のきっかけです。
20歳から書くようにしてきた半年以上空くこともある日記にあった、変わらないことを、ABOUTへ記しました。
職人という言葉には重みがあって、自ら定義する理想の職人像には届いていません。表現者として、習作づくりから作品づくりへと向き合うことで、成っていきたいです。
ものを作ることが好き。自分が作ったもので誰かが喜んでくれたら嬉しい。この2つの想いが全てです。どんなものを作りたいか、どんなことができるかは模索中です。できることから初めてみようと思います。
自分が知っている範囲の中でしか、ものを作ることができないので、BESPOKEは自分の知らない表現への道標と考えています。こんな形のピアスが欲しい。探しているけど見つからない。など、メッセージを頂けたら嬉しいです。
さまざまな人から教えを受け、助けて頂きながら、自身の成長とともに、WORKSのページを1枚づつ加えていきたいです。
Raccontoをよろしくどうぞお願い致します。
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